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戦争で生きたくても生きられなかった若き画家たちの作品を集めた長野県の美術館・無言館の作品が、慰霊の日に合わせ、県立美術館に来ています。

それに呼応する形で、戦争を引き受け、その後も生きねばならなかった沖縄の画家たちの作品も展示され、連日多くの人が足を運んでいます。

昭和14年。憧れの東京美術学校、今の芸大に入学した尾田龍馬は満州で亡くなった。姉の多美子さんは、戦地に絵の具を送り続けた。死期が迫った陸軍病院で、龍馬は最後の力を振り絞って、姉のために芍薬の絵を描いた。遺骨とともに届いたこのハンカチを握りしめ、多美子さんはただ号泣した。

同じ芸大に進んだ曽宮俊一は画家・曽宮一念の自慢の息子だった。父は戦地の一人息子に、何度も手紙を出した。

『達者か。早く帰って来い。お前には芸術があるぞ』

しかし、手紙は届かなかった。以来、息子の話は一切しなかった父は、90を過ぎたころ、一言だけ「くやしい」といい、失明した目に涙をにじませた。

『せめてこの絵の具を使い切ってから死にたい』 兵士を送る万歳が聞こえる中、渡辺武はなかなか絵筆をおこうとしなかった。美大では前衛グループのリーダーだった渡辺は首里で戦死。亡くなる直前まで戦友たちの顔を描いていた。

ほとばしる芸術への情熱を断ち切った「戦争」。では、その戦争の舞台になったこの島で戦争はどう描かれ、また描かれなかったのか。

初めて展示される山田真山の幻の絵。当時60歳だった真山は、家族で戦場を逃げ回った。これは戦後二年目に書かれた生々しい記憶である。

土江真樹子さん「山田が沖縄戦の絵を描いたのは初めてです。意を決して書いたと思うんですが、それが米軍の検閲でカットされて掲載されなく、そのあと行方不明になっている」

山田はその後、戦争の絵は一枚も書いていない。そして鎮魂のため、平和祈念像をはじめ、観音像の制作に没頭した。

土江さん「なぜこの絵が今存在しないのか。なぜ複製でなければ私たちは見ることができないのか。そこにある物語、社会事情、時代を見ていただきたいと思います」

『逃げたところで、追いかけてくる』 14歳で終戦を迎えた与儀達治は、戦争の記憶をこう表現する。

南部の崖をさまようこの鳥たちは、散っていった多くの学友と朝鮮半島に帰りたい魂たち。高く舞い上がっても、故郷に続く青い空はない。羽を休める場所を求め、今日も飛び続けている。

『増産兵士』 沖縄の画家が戦争を支える銃後の人々を描いた貴重な一枚だ。当時の美術界は、戦争に向かう高揚感に溢れた作品を歓迎した。しかも、画材が不足した時代を映すように、裏にも労働に励む人々の姿が描かれている。

土江さん「これはずっと長い間丸めて保存されていた。丸めて保存するというのはどの作家にとっても嬉しいことではない。それをあえてした大嶺政敏は何を考えていたのか」

教職の傍ら東京で絵を描いていた政敏は、戦後、変わり果てた沖縄の姿に打ちのめされ、集団死の狂気を追体験するように、すさまじい絵を描き始める。

銃の先には自分の同胞、沖縄の人々がいた。銃後の人々ではなく、その銃の先で起きたことを書かなくては。毎日つけていた日記には、そんな政敏の気迫があふれている。

生きられなかった画家たち。生きねばならなかった画家たちの慟哭と祈りが伝わるこの作品展は、来月29日までです。