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沖縄が本土に復帰した35年前のきょう、日本政府が県内の小中学生に復帰メダルという記念メダルを配ろうとしたことをご記憶の方はいらっしゃいますでしょうか。正確には多くが配られずに回収されたのですが、なぜ、メダルは配られなかったのでしょうか?そしてその後、どうなったんでしょうか?メダルの今を取材しました。実近記者です。

『あなたは復帰記念メダルを知ってますか?』

「私ちょうど中学3年でしたけど、復帰の日・年は、ちょっと記憶にないですね」「記憶はないですね。復帰の時は中学2年ですけど、覚えてないですね」「初めて見ます」「ちょうど復帰生まれなんで、もらってないのかな」

復帰記念メダル。その文字は沖縄が本土に復帰した1972年、5月の新聞に登場します。当時の新聞によると、メダルは日本政府が復帰の5月15日に、教育委員会を通して県内全ての小中学生、およそ20万人に配布しようとしたもの。しかし、現場の教師たちが、これに待ったをかけたというのです。

有銘さん「これはけしからんと。そのまま受け入れて、学校で教壇から配ることは絶対にできんと」

沖教組でこの問題に関わった有銘政夫さんは、当時の沖縄の教師たちの思いをこう語ります。

有銘さん「復帰を祝うということでしょう。結局メダルを配る、それを教育現場を通してとなると。おしつけを担ってしまうわけですよ。教師としてはこれは不満だからね。現状に合わない復帰の中身は沖縄県民の意思を全く無視しているわけだから」

『基地が残ったままの復帰は、真の復帰ではない』。当時、多くの県民とともに、教師たちは復帰のあり方に強い不満を抱いていました。沖教組は復帰直前、臨時大会を開いて、配布反対を確認。父母らの声も強く、その後、当時の県教育庁もメダルを回収することに同意したのです。

メダルは、回収が遅れた先島地方や本島の一部の小中学校で実際に配布されましたが、中部や那覇ではほとんど配られず、中には子どもたちに自主的に返還させた学校もありました。

南城市、県立少年自然の家。当時回収されたメダルが今も残っていると聞いてやってきました。その数、およそ1500枚。

実近記者「これが復帰記念メダルです。40枚が1枚のシートに収められていて、こうして持つとずっしりとした重さを感じます。表面は今もこうしてビニールに覆われていて、35年間、眠ったままになっています。」

メダルは銅製で、表面には守礼門と沖縄の海がイメージされ、裏には復帰おめでとうという文字と日の丸。

結局、10万枚が配られなかったと言われていますが、正確な数字は分かっていません。復帰後、メダルの扱いに困った教育庁は、こうした県内の公共施設にばら撒いたのです。

石垣所長「ちょっと趣旨とは違うんですけど、うちとしては賞品として活用させていただくと」

少年自然の家では、今でも子どもたちにオリエンテーションなどの賞品としてメダルを配り続けています。

有銘さん「絶対にこれはノーだというので、受けないという前提だからね。恐らく、開けて見ようなんていう発想にはつながってないと」

当時、実際にメダルを見た人は少なかったといいます。

有銘さん「ああ、こんな小さかったですか。やっぱり、この復帰おめでとうというのは、いただけなかったですね。初めて見ます。」

上原先生「そのメダルを見て、どんなことが書いてあるか、どんなことが分かるか、考えながら見てください。」

那覇市で、復帰記念メダルを使って、授業を行っている先生がいます。配られたメダルを不思議そうに眺める子どもたち。

上原先生「さあ、皆さんにここで考えてほしいの。なぜ、配られなかったのかな?」

上原先生は、メダルが配られなかった背景や復帰当時の沖縄の様子を説明。子どもたちは、メダルに隠された歴史の事実に、じっと耳を傾けていました。

上原先生「今の沖縄、それから将来の沖縄を自分たちでどうしたいのかということを考える手がかりになってほしいなと思っています。」

「(復帰記念メダルってご存知ですか?)ああ、はいはい、もらいました。覚えありますね。」「小学校1年生か、幼稚園ぐらいだったと思うんですよ」「(騒動になったのはご存知ですか?)いや全く分からないですね」「覚えてます、覚えてます、もらった覚えありますね」「あ、見たような気がします。はいはいはい、ありますよ。覚えてらっしゃいます。うんうんうん、見たことありますよ」「中学校2年でした」「そのときは、この意味とか価値とか分かんなかったんですが、このメダルは見覚えあります。」

メダルはこの35年の間に様々な形で散らばりました。

有銘さん「(35年たって沖縄変わりましたか?)いや、変わらない、ぜんぜん変わらない」

35年前のきょう、沖縄は豪雨でした。そして雨の街に響いたのは、喜びの声よりも変わらない基地の現状に抗議する集会のシュプレヒコール。メダルの配布反対、回収騒動はそんな時代の、県民のごく当たり前の選択だったのかもしれません。

これが、復帰記念メダルです。ほんとに小さなメダルで、今の時代ですと「たかがメダルで」って感じがしますけど、当時は学校の先生もその父母たちも、多くの県民が本当に真剣だったんだなと思います。本土復帰というものを改めて考えさせられる、なかなかいい教材ですね。